かつて国分八幡神社(鹿児島神宮)と宇佐八幡神社(宇佐神宮)の間でどちらが正統の八幡宮であるか論争があった。1132年(長承元年)あるいは1527年(大永7年)11月、宇佐八幡の神官14名が鹿児島を訪れ国分八幡の古文書を調査し、正統性は疑わしいとして社に火をかけた。ところがこの火災の煙が「正八幡宮」の文字を示したことから神官たちは驚きあわてて逃げ帰ろうとした。逃げる途中、台地上の大木の下で休んでいたところ、木が倒れて下敷きとなり13名が死亡、残された1名も宇佐八幡に戻って顛末を報告するとともに死亡した。死者のために13基の塚が建てられたという。しかし農業改善事業の実施により本来の史跡は失われこの地に記念碑と共に縮尺され移されたものなので史跡としての価値は低い。第二次世界大戦末期、1943年(昭和18年)8月に設立された国分海軍航空隊の第二基地としてこの辺りに十三塚軍用飛行場が建設され、1945年(昭和20年)にはここから特別攻撃隊が出撃し147名が戦死した。戦後、台地北端の上床公園に「十三塚原海軍特攻記念碑」が建てられている。
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