国分城跡

[`yahoo` not found]
LINEで送る

慶長9年(1604年)頃、島津義久はそれまで住んでいた富隈城から、新しい城を新設して移り住んだ。なお縄張りは、帰化した明国人で加治木衆中の江夏友賀が担当。義久は寒村であった場所に京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を整備したが、慶長16年(1611年)に義久が没した後は、義久の娘で18代当主・島津家久(忠恒)の正室であった亀寿姫が鹿児島城より別居させられて移り住んだ。寛永7年(1630年)に亀寿姫が死んだ後は国分城は藩主直轄の地となり、地頭屋形がおかれていた。